病院の治療は医師にお任せの“他力本願”ではない [健康情報、本当の話]
病院の治療は、医師にお任せの“他力本願”だからダメだと川竹文夫さんは言っている。前回はそこまで書きました。病院の治療だと「自己貢献度」が「ゼロに近い」。自覚的ではないというのです。たしかに、ドクハラむきだしの病院も絶対にないとはいえません。しかし、そういう病院も含めて、最後に判断するのは患者側です。患者は医師の説明を受ける権利があると同時に、自分自身の判断力も求められます。立派に自覚的な行為であり、“他力本願”とはいえないと思います。
では、なぜ川竹文夫さんは、病院の治療には「自己貢献度」がないと言い張るのでしょうか。
川竹文夫さんの闘病時代を、前回に引き続き同書から引用します。
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「朝回診がありますね。医者と看護婦が検温などに来ます。
で、他のみんなは、自分の順番が来るまでベッドに寝たまま待っているのに、私だけはいち早く起き上がって正座して待つんです、じっと。看護婦さんが、『寝てていいですよ』と言ってくれているのに、それでも、なぜか正座なのです。不思議でしたね、自分でも。なんでこんなことをするのかと。
ところが、手術後の傷の痛みも消える頃になって、私はようやくその謎がとけました。口にこそ出さないけれど、私の心は、『先生だけが頼りです』と、か細い声で、弱々しくつぶやいていたんだと思うんです。自分は無知で無力な患者だ。先生や看護婦さんに気に入られて、優しくしてもらわなければ、生きていけない‥…・そう思っていたんですね。
そして、その自分の本心に気づいた私の自尊心は、ずたずたになりました。ガンになるまでは、恐いものなし。自信と倣岸不遜が服を来て歩いているような、肩で風を切って歩いていた、あの自分はいったいどこに消えてしまったのかと、悩みました」(『「ガン・治る法則」12カ条』)
ということだそうです。
川竹文夫さんはよほどプライドの高い方のようです。
気弱になってしまった自分を恥じていたわけです。
しかし、逆に言えば、それほど医師を頼りにしてまじめに治療を受けたからこそ、今があるという見方はできないのでしょうか。
自分が医師を信用するという行為は、自分の意思であり責任です。
これも立派に治療における「自己貢献度」の高い行為ではないでしょうか。
もしそこで、医師を信用せず治療をコバカにして手術をしなかったら、その後は取り返しのつかないことになっていたでしょう。
「川竹教」に違和感があるのは、「教祖」の川竹文夫さん自身にはき違えがあるからです。
それは、病気の治療というのは、治療するのは医師でも病気を克服する主人公は患者自身なんだ、という視点がないことです。
通常の治療だって施術者が医師と言うだけで、「患者さんが自分でできる治療法」であるという考え方ができないことです。
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そこがズレているから、医師にペコペコしたなどという小さなうわべのことで喪失感にさいなまれるのです。
そんなことは本質ではないでしょう。
正座するのも頭を下げるのも、医師との信頼関係に基づく自発的な行為ではないですか。
(次回に続く)
川竹文夫さんについて、詳しい論評はコチラ>>
では、なぜ川竹文夫さんは、病院の治療には「自己貢献度」がないと言い張るのでしょうか。
川竹文夫さんの闘病時代を、前回に引き続き同書から引用します。
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「朝回診がありますね。医者と看護婦が検温などに来ます。
で、他のみんなは、自分の順番が来るまでベッドに寝たまま待っているのに、私だけはいち早く起き上がって正座して待つんです、じっと。看護婦さんが、『寝てていいですよ』と言ってくれているのに、それでも、なぜか正座なのです。不思議でしたね、自分でも。なんでこんなことをするのかと。
ところが、手術後の傷の痛みも消える頃になって、私はようやくその謎がとけました。口にこそ出さないけれど、私の心は、『先生だけが頼りです』と、か細い声で、弱々しくつぶやいていたんだと思うんです。自分は無知で無力な患者だ。先生や看護婦さんに気に入られて、優しくしてもらわなければ、生きていけない‥…・そう思っていたんですね。
そして、その自分の本心に気づいた私の自尊心は、ずたずたになりました。ガンになるまでは、恐いものなし。自信と倣岸不遜が服を来て歩いているような、肩で風を切って歩いていた、あの自分はいったいどこに消えてしまったのかと、悩みました」(『「ガン・治る法則」12カ条』)
ということだそうです。
川竹文夫さんはよほどプライドの高い方のようです。
気弱になってしまった自分を恥じていたわけです。
しかし、逆に言えば、それほど医師を頼りにしてまじめに治療を受けたからこそ、今があるという見方はできないのでしょうか。
自分が医師を信用するという行為は、自分の意思であり責任です。
これも立派に治療における「自己貢献度」の高い行為ではないでしょうか。
もしそこで、医師を信用せず治療をコバカにして手術をしなかったら、その後は取り返しのつかないことになっていたでしょう。
「川竹教」に違和感があるのは、「教祖」の川竹文夫さん自身にはき違えがあるからです。
それは、病気の治療というのは、治療するのは医師でも病気を克服する主人公は患者自身なんだ、という視点がないことです。
通常の治療だって施術者が医師と言うだけで、「患者さんが自分でできる治療法」であるという考え方ができないことです。
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そこがズレているから、医師にペコペコしたなどという小さなうわべのことで喪失感にさいなまれるのです。
そんなことは本質ではないでしょう。
正座するのも頭を下げるのも、医師との信頼関係に基づく自発的な行為ではないですか。
(次回に続く)
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