健康プーム、人はなぜ怪しげな療法に惹かれるのか [健康情報、本当の話]
健康ブームといわれてから久しいですが、みなさんは健康維持のためにどのようなことを心がけていますか。昨今、健康食品、健康療法、健康器具など様々な健康情報が、紙媒体(書籍、雑誌)、放送媒体(テレビ、ラジオ)、Web媒体(サイト、情報商材)などこれまた様々な手段を通して広められています。
それらは医学的に立証されているとはいえないもの、明らかにデタラメなものなどもありますが、消費者である国民に対して十分には認識されていないようです。
それらに対する批判が行われていないわけではありません。にもかかわらず、インチキ健康法商法はあとをたちません。
人はなぜ怪しげな療法に惹かれるのでしょうか。その理由はいくつか考えられます。
ひとつには、健康情報は、科学と価値の連関する複雑な問題であり、科学的な回答に沿った選択が必ずしも受け入れられるとは限らないことがあります。もとより、医学はそうした性格を持っています。
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たとえば、「スプーン曲げ」が本当かウソか、というのは科学的な真偽として決着をつけることはできます。
しかし、たとえば「脳死」を人の死と見るかどうかは、「科学」だけで答えは出ません。結局それはそのときの国民が「どう思うか」という「価値」を問う問題です。
がんが進んでいる患者に対して、積極的な治療をするのか、しないのか、という場合でも、その時点での医学の水準が判断の基準ではありますが、最終的な答えを出すのはその患者自身の価値観です。
極端に言えば、気休め治療をするかしないかも価値判断ですが、「気休め」となれば解釈の幅は広がり、そこにインチキ健康法の付け入る隙が生じます。
ふたつ目は、健康問題が単にそれ自体の科学的根拠だけでなく、社会的な問題としての視点を持たなければならないのに、それがインチキ健康法を批判する陣営の間でも必ずしも理解されていないということです。
「抗がん健康食品」がなぜ流行するのかを問題にする場合、がんに効く根拠があるのかどうかだけを確認すれば済むわけではなく、それがいかなる手法で売られているのか、なぜ効くと信じられているのか、というところまで見なければ解決しません。
がん患者が命を脅かす自分の病に恐怖を感じ、民間療法や健康食品にかけてみたくなる気持ちは、筆者は一人の弱い人間として大いに理解できます。
それに対して、エビデンスのないものにすがる=無知・バカ者、という紋切型の判定が「正しい」といえるでしょうか。
それは、人間がまちがいうる存在であるという立場に立たないだけでなく、人間が社会的な生き物である、ということを考慮しない非現実的で合理性を欠いた考えです。
悪いのはそうした「すがる気持」ちではなく、それにつけ込む業者や、そうしたビジネスがまかり通る社会なのだ、と疑問を抱くセンスが求められるのではないでしょうか。
三つ目は、医学がまだ未解明の部分を多く残し、真実の書き換えが現在も頻繁に行われているということです。現在正しいとされていることが、より高次の水準で否定されることは決してめずらしくありません。
また、がん治療が絶対でなかったり、ドクハラや医療過誤に対する対応のまずさがあったりなど、医療に対する不安感や不信感も少なからず国民は抱いています。
四つ目は、健康の問題は個体差や多様な条件によって非線形の変化を生じる「複雑系」であることです。
健康によいといわれる○○を食べたから健康になる、という単純なものではありません。かといって、その食べものが健康によいかどうかを見ることは無意味ではありません。
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健康情報を検証する仕事は、従来の分析主義や要素還元主義が通用しない分野のため、古典的な自然科学者の手法が通用しにくい面があると考えられます。
そして、これらを貫いていえることは、医師や医学者、科学者といった「専門家」が、その専門分野の回答を高見から居丈高に押しつけるだけでは国民に伝わらないということです。
一般消費者・国民の価値観に沿った視点から、そう信じさせているものを科学的に読み解いて行くことが必要です。
科学的真偽だけでなく、ひとりびとりの価値判断も両立させなければなりません。
その意味で、医学、とりわけ現場の医師は、解剖学だけでなく、社会科学や人文科学にも精通する知見や価値観をそなえる必要があるのではないでしょうか。
それらは医学的に立証されているとはいえないもの、明らかにデタラメなものなどもありますが、消費者である国民に対して十分には認識されていないようです。
それらに対する批判が行われていないわけではありません。にもかかわらず、インチキ健康法商法はあとをたちません。
人はなぜ怪しげな療法に惹かれるのでしょうか。その理由はいくつか考えられます。
ひとつには、健康情報は、科学と価値の連関する複雑な問題であり、科学的な回答に沿った選択が必ずしも受け入れられるとは限らないことがあります。もとより、医学はそうした性格を持っています。
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たとえば、「スプーン曲げ」が本当かウソか、というのは科学的な真偽として決着をつけることはできます。
しかし、たとえば「脳死」を人の死と見るかどうかは、「科学」だけで答えは出ません。結局それはそのときの国民が「どう思うか」という「価値」を問う問題です。
がんが進んでいる患者に対して、積極的な治療をするのか、しないのか、という場合でも、その時点での医学の水準が判断の基準ではありますが、最終的な答えを出すのはその患者自身の価値観です。
極端に言えば、気休め治療をするかしないかも価値判断ですが、「気休め」となれば解釈の幅は広がり、そこにインチキ健康法の付け入る隙が生じます。
ふたつ目は、健康問題が単にそれ自体の科学的根拠だけでなく、社会的な問題としての視点を持たなければならないのに、それがインチキ健康法を批判する陣営の間でも必ずしも理解されていないということです。
「抗がん健康食品」がなぜ流行するのかを問題にする場合、がんに効く根拠があるのかどうかだけを確認すれば済むわけではなく、それがいかなる手法で売られているのか、なぜ効くと信じられているのか、というところまで見なければ解決しません。
がん患者が命を脅かす自分の病に恐怖を感じ、民間療法や健康食品にかけてみたくなる気持ちは、筆者は一人の弱い人間として大いに理解できます。
それに対して、エビデンスのないものにすがる=無知・バカ者、という紋切型の判定が「正しい」といえるでしょうか。
それは、人間がまちがいうる存在であるという立場に立たないだけでなく、人間が社会的な生き物である、ということを考慮しない非現実的で合理性を欠いた考えです。
悪いのはそうした「すがる気持」ちではなく、それにつけ込む業者や、そうしたビジネスがまかり通る社会なのだ、と疑問を抱くセンスが求められるのではないでしょうか。
三つ目は、医学がまだ未解明の部分を多く残し、真実の書き換えが現在も頻繁に行われているということです。現在正しいとされていることが、より高次の水準で否定されることは決してめずらしくありません。
また、がん治療が絶対でなかったり、ドクハラや医療過誤に対する対応のまずさがあったりなど、医療に対する不安感や不信感も少なからず国民は抱いています。
四つ目は、健康の問題は個体差や多様な条件によって非線形の変化を生じる「複雑系」であることです。
健康によいといわれる○○を食べたから健康になる、という単純なものではありません。かといって、その食べものが健康によいかどうかを見ることは無意味ではありません。
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健康情報を検証する仕事は、従来の分析主義や要素還元主義が通用しない分野のため、古典的な自然科学者の手法が通用しにくい面があると考えられます。
そして、これらを貫いていえることは、医師や医学者、科学者といった「専門家」が、その専門分野の回答を高見から居丈高に押しつけるだけでは国民に伝わらないということです。
一般消費者・国民の価値観に沿った視点から、そう信じさせているものを科学的に読み解いて行くことが必要です。
科学的真偽だけでなく、ひとりびとりの価値判断も両立させなければなりません。
その意味で、医学、とりわけ現場の医師は、解剖学だけでなく、社会科学や人文科学にも精通する知見や価値観をそなえる必要があるのではないでしょうか。
まったくその通りだと思います。近年医療もエビデンスがないと駄目だと頭ごなしに決めつけ過ぎている感があるように感じています。でもプラセボが効くように人間には精神的な加療も重要な因子だと思います。医師と患者の信頼関係から医療が成り立つ事も大事な事ですよね(。°ー°)σ
by ritton2 (2010-09-17 07:45)
ritton2さん、コメントありがとうございます。
エビデンス主義は医療の近代化をもたらしましたが、
ともすれば人と医療に距離を作ってしまったかもしれませんね。
by skeptics (2013-12-26 14:03)